オクスウ

天国

それは、勝利の為に戦うのではなく、勝利によって戦うのです。

2015年4月19日主と共に立ち上がる文亨進二代王様のみ言より:エペソ人への手紙6:10-13最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうる為に、神の武具で身を固めなさい。私達の戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、闇の夜の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうる為に、神の武具を身につけなさい。

私達の信仰生活、毎日の生活、霊界を含んだ地上での日常生活、どのように送ったらいいのか、サタンと戦うためにどのようにしたらいいのか、今の時に必要なみ言ですが、私達の日常の信仰生活の意識の基本になると思いました。初めて教えていただく内容で驚きました。(み言の抜粋を載せます)

二代王様のみ言より:私達がお父様の霊に満たされた時、私達は霊によって力が与えられ、何かができるようになるのであり、大きくなることができるのです。私達がお父様の霊によって満たされた時、感情にコントロールされてはいけません。私達はみことばに戻っていくのです。私達が霊的な体験をして、お父様が私達に現れて霊的五官が開かれた時、私達はみことばに戻っていくのです。なぜなら、それらの根拠はみことばにあるからです。そして、その霊的な動きをみことばで再確認するのです。 

聖書や原理講論や天聖経を開いてみて、神様が言われたことを再確認して、神様がどのようにして私達を導いているかを知るのです。私達は神霊と真理で前に進んでいくのです。私達は霊だけに導かれるだけではだめです。それだけでは狂人になってしまう可能性があります。それで、それがみことばに根ざしていて、そこで再確認されることがとても重要です。そうでなければ、私達は軌道を離れて宇宙のかなたへ飛ばされてしまいます。

本当に驚きですよね。こんなふうに霊界に接触した時にみことばで確認したことがありますか?私はお祈りはしていましたが、聖書や原理講論や天聖経を開いて確認したことがありません。そして思うことは、このように神様と接触させていただくのだとわかりました。本当に嬉しいことです。(みことばに戻ります)

今日の聖句の続きを見てみましょう。「その偉大な力によって」とあります。「力」はギリシャ語で「karatosクラトス」です。その意味は「巨大な力、支配力」という意味が含まれています。それは、私達はサタンの支配下ではなく、神様の支配下にあるという意味です。相対主義を主張する人達は「いろいろな道が同じ神様のところへ人を導く」といいますが、サタンを崇拝する人とイエス様を礼拝する人は、全く違うところへ行きます。相対主義は人を破滅の方向へ導くだけです。それは道徳の破壊を社会にもたらします。私達の力は、相対主義から来るのではなく、真にして、最も神聖で実体の神様から来るのです。そのような力が、あなた達を霊的な力に導くことができます。ある力があなた達を霊的覚醒へ導くことがあります。しかし、もしそれを通してあなたがそれを崇拝しなければならなかったり、自分自身を崇拝しなければならなければ、それは破滅へのみちです。

聖霊による力、すなわち神様の霊の力、主の霊の力だけが、今私達に必要なものです。そして、私達は神様の力によって支配されるのです。

次に「神の武具で身を固めなさい」とあります。お父様は今、私達の霊的五官を開こうとされています。霊界との関わりを持つためには、私達は、神の武具が必要なのです。霊界は、ただ天使が飛び回っているところだけではありません。そこには悪の力も存在するのです。武具はギリシャ語では「Panolpliaパノルプリア」です。そこには「霊的な戦いの為に神様が信者に与えた様々なタイプの必要十分な兵器」といういみが含まれています。

それは、勝利の為に戦うのではなく、勝利によって戦うのです。それは大きな違いです。私達は私達自身の力によって戦うのではなく、神様が与えてくださった兵器を使って戦うのです。私達の勝利の為に戦うのではなく、主の勝利によって戦うのです

主の血の犠牲によって勝利された場所は、サタンが進入することが出来ない場所です。ですから、すでに戦いは終わっているのです。私達がその勝利の基台の上に立つとき、私達は、すでに勝利しているのです。

「Panolpliaパノルプリア」には「必要十分な兵器」という意味が含まれています。神様はサタンと戦うために、私達に不十分な兵器を与えることはしません。私達が迫害を受けている時、私達には必要十分な兵器がないと感じるかもしれません。しかし、私達が神の武具を身につけるとき、神様は私達が勝利するのに十分な攻撃用の兵器と、防衛用の兵器を与えて下さるのです。それは、私達の勝利の戦いではなく、主の勝利によってすでに勝利された戦いなのです。

私達が悪と戦うとき、サタンと戦うときサタン分別といいますが、すでに真のお父様が勝利されているので私達がサタンと戦って勝てるのだと教えていただきました。

主の血の犠牲によって勝利された場所は、サタンが進入することが出来ない場所です。ですから、すでに戦いは終わっているのです。私達がその勝利の基台の上にたつとき、私達は、すでに勝利しているのです。感謝!感謝!感謝!

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