オクスウ

天国

悪霊は神様に従いたくないくせに神様の存在について誰よりもよく知っていることです

神様はパウロを通じて奇跡を見せて下さいます。手ぬぐいや前掛けを病人に当てるだけで、病気が治る奇跡を許可されます。これはイエス様の弟子たちの影がその病人に触れただけでその病気が治ったということと似ています。神様の聖霊の恩恵と能力がとても強く豊かであるために、このような奇跡が初代教会に現れたのですね。病人が治り悪霊が人々の体から離れる役事が出てきます。しかし13節を見ると(使徒行伝19章11節から41節まで)、ユダヤ人のエクソシスト(悪霊を追い出す人)までも(イエス様を主として信じない人)イエス様の名前を使って、悪霊を追い出す状況まで生じたそうです。興味深いのは、悪霊は神様に従いたくないくせに、神様の存在について誰よりもよく知っていることです。ユダヤ人のエクソシストが悪霊を追い出そうとする時、「私は(悪霊は)イエス様も知っているしパウロも知っているのに、お前は誰だ」と聞き返したりするほどだと言いました。悪霊はイエス様が誰なのか知っていたというのです。イエス様を信じないユダヤ人のエクソシストは、イエス様の名前を使って悪霊を追い出そうとしたので、むしろその悪霊が彼にとりつく現象がおきました。なぜかというとイエス様を主として迎接せずに、その名前を自分のお金を作る道具に使おうとしたからです。そのようにしてイエス様の名前は全ユダヤに知られ、さらに上がったのです。神様の聖霊の能力はどんな本や約束とは比較できないほど大きいので、人々は魔術の本を持ってきて、これ以上これらの本は価値が無いと言って燃やしたというのです。主への信仰と情熱的な祈りで、主が許可された霊的能力を完全に持つことができたとということなのです。〈御言キングスリポート2019年1月15日(火)エクソシスト、悪霊もイエスを知っている、文亨進二代王様〉より。ブログ真のお父様に帰ろう!「三代王権・心のサンクチュアリ教会」から。今私達はこの時と同じようだとおもいます。聖霊治癒の役事を受けることができるからです。こんなにハッキリ間近に神様の聖霊を感じ、見ることができます。だから神様や真の御父母様のみ言、それから文亨進二代王様が教えて下さる霊界について、良く知る時がきていると思います。知らないまま今の時を過ぎてはいけないし、過ぎては行けないのでは?と思います。それでピックアップしました。イエス様の時にもあった役事の内容、霊界のことについて説明がされています。正しく知って今の時を過ごしたいです。善なる霊や霊界、悪なる霊や霊界を知り気を付けたいと思います。

もう一つ感動したこと

文鮮明先生の自叙伝より。〈草むらの虫と交わす宇宙の話〉森の中にいれば心が澄んできます。木の葉がしきりにカサカサする音、風が葦を揺らす音、水場でカエルの鳴き声といった自然の音だけが聞こえ、何の雑念も生じません。そこで、心をがらんと開け、自然を全身で受けいれれば、自然と私は別々のものではなくなります。自然が私の中に入ってきて、私と完全に一つになるのです。自然と私の境界がなくなる瞬間、奥妙な喜びに包まれます。自然が私になり、私が自然になるのです。私はそのような経験を生涯大事にしまって生きてきました。今も目を閉じれば、いつでも自然と一つになる状態が訪れます。ある人は無我の状態だとも言いますが、私を完全に解放したところに自然がはいってきて留まるのですから、事実は無我を超えた状態です。その状態で、自然が話しかける音を聞くのです。松の木が出す音、草むらの虫が発する音……。そうやってわたしたちは友達になります。私は、その村にどんな心性を持った人が住んでいるか、会ってみなくても知ることができます。村の野原に出て一晩過ごし、田畑で育つ穀物の言葉に耳を傾ければ、おのずと分かるようになります。穀物が嘆息するのか喜ぶのかを見れば、村人の人となりを知ることができるのです。韓国と米国、さらには北朝鮮で何度か監獄に入っても、他の人のように寂しいとかつらいとか思わなかったのも、すべてその場所で風の音を聞くことができ、共に暮らす虫たちと会話を交わすことができたからです。「虫たちと一体どんな話しをするんだ!」と疑うこともできますが、ちっぽけな砂粒一つにも世の中の道理が入っており、空気中に浮かぶ埃一つにも広大無辺な宇宙の調和が入っています。わたしたちの周りに存在するすべてのものは、想像もできないほどの複合的な力が結びついて生まれているのです。またその力は密接に連関して相互につながっています。大宇宙のあらゆる存在物は、一つとして神の心情の外で生まれたものはありません。木の葉一枚揺れることにも宇宙の息遣いが宿っています。私は幼い頃から山や野原を飛び回って、自然の音と交感する貴重な能力を与えられました。自然はあらゆる要素が一つのハーモニーをなして、偉大で美しい音を作り出します。誰一人として排除したり無視したりせず、どんな人でも受け入れて調和をもたらします。自然は、私が困難にぶつかるたびに私を慰めてくれたし、絶望して倒れるたびに私を奮い立たせました。大都市に生きる最近の子供たちは自然と親しむ機会すらありませんが、感性を教え育むことは知識を養うことより重要です。。自然を感じる心がなく、感性が乾いた子供であるならば、誰が教育したところで何が変わるでしょうか。せいぜい世間に広まった知識を積み上げて個人主義者になるだけです。そんな教育では、物質を崇拝する唯物論者ばかりを作り出すことになってしまいます。春の雨はぽつぽつ降り、秋の雨はぱらぱら降る、その違いを感じることができなければなりません。自然との交感を楽しめる人であってこそ正しい人格が身に付くと言えます。道端に咲いたタンポポ一本が天下の黄金よりも貴いのです。自然を愛し、人を愛することのできる心を備えておくべきです。自然も、人も愛せない人は、神を愛することはできません。神が創造された万物は神ご自身を表す象徴的な存在であり、人は神に似た実体的な存在です。万物を愛することのできる人だけが神を愛することができます。:私が感動した部分を載せました。この世界の中で生活したいと思います。私の心も喜び、私の肉体の細胞のひとつひとつが喜ぶ世界だとおもいました。

神様が導いてくださる安心でホッとする世界。一緒に神様のことつぶやきませんか。

文鮮明先生自叙伝より。序文から。乾いた冬の終わりに、夜通し春雨が降りました。どれほどうれしいことでしょうか。朝の間中、庭をあちらこちらと歩き回りました。湿りを得た地から、冬の間ずっと嗅ぐことのできなかった土の香りが芳しく匂い立ち、枝垂れ柳や桜の木には小さな芽が萌え始めました。至る所から、ぽんぽんと新しい生命の芽吹きの音が聞こえてくるようです。追いかけるように庭に出てきた妻は、いつの間にか乾いた芝の上にひょいと突き出したヨモギの新芽を摘み取ります。一晩降った雨で、すべてのものが香りを放つ春の庭園になりました。世の中が騒がしかろうと、どうであろうと、三月になれば必ず春は訪れてきます。このように冬が去って春になり、春になれば花が満開になる自然は、年を取るほどに、より貴重なものとなってきます。私が何者だからといって、神様は季節ごとに花を咲かせ、雪を降らせ、生の喜びを与えてくださるのか。胸の内、その深い所から愛があふれ、それが喉元まで込み上げてきて、息が詰まるようです。生涯、平和な世界を成すために東奔西走し、地球を何周も回りましたが、私は今、この春を迎える庭において真正なる平和を味わっています。平和もまた、神様が何の見返りも求めず、ただで下さったものです。私たちは、それをどこでなくしてしまったのでしょうか。全く見当違いの場所で捜し出そうと努力しているのかもしれません。序文からでした。最初この内容に触れたのは朗読でした。驚いた私は号泣してしまいました。公の場所でしたので、なるべく声をださず下を向いてタオルで顔をおおって泣きました。本当に美しく、自分もこの世界にひたり真正な平和を味わいたいとおもいました。文先生に出会い、神様と出会うことが出来ました。神様が導いてくださる安心でホッとする世界。一緒に神様のことつふやきませんか。