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天国

何故今文亨進二代王様のみことばを載せるのか

文亨進二代王様のみことばは、神様と真のお父様、メシアのことを具体的にお話ししてくださり、私たちに関係を結ぶように導いてくださっていると思います。

家庭連合の時は遠い神様、真のお父様だったと思います。畏れ多くて近づけない存在でした。

あまりにも清い聖霊も、ペンテコステも、何か特別な存在であり、特別な事として受け止めていました。

何故なら、アベルから「あなた達が、神様、メシア、聖霊、とんでもない!直接接することができると思うの?」みたいなことを言われ続けたように思います。

神様を慕い、メシアを慕っても、厳しいルールがあり、遠くからアベルを通じて接する神様とメシアでした。

明らかに差別があったと思います。そして、必ずアベルを通さなければ神様につながることができない、メシアにつながることができない。

皆さんは如何でしたか?私は本当に罪人なので仕方ないと思ってました。どうして統一教会へきたのだろう、私は何をしたいのだろう、何度も思いました。

希望がもてなかったのです。私は本当に救われるのだろうか。と思いました。

しかし様々な導きの結果サンクチュアリ教会に来ました。

私は文亨進二代王様のみことばが大好きです。生命が生きるなーと思います。

そして神様とメシアに私たち一人一人をつないでくださいます。本当に嬉しいです。

長い時を経てようやく、わたしが、生まれてきたことを知ることができると思いました。私の人生が始まったと思いました。

神様が私たちの為に24時間祈祷してくださり、聖霊はいつでも私たちを牧会する準備をして下さっている。

この言葉をみことばの中で見つけた時を本当に嬉しく、感動しました。

こんなに近くずーっと私たち一人一人を見つめて祈って下さってた神様、そうして牧会の準備をして下さっていた聖霊、

信じることと信仰の違いもそうでしたが、とても身近に神様はいてくださって私たちを導こうとして下さっていることが分かりました。

何故ならメシアが全て勝利されて私たち人類を神様に会えるようにしてくださったからです。

文亨進二代王様のみことばをどうしてもう一度ブログに載せるのか?と思われるでしょう。

私は今まで、家庭連合で受けることのなかった牧会を受けていると思います。

私は生まれてきました。そして神様にであうことができるように真のお父様が導いて下さいました。

本当に一人一人が神様によって自分の本来与えられた人生を生きて霊界に行けるように今導かれています。

真のお父様が私たちに与えたかった内容が今文亨進二代王様と国進様によって教えられ、今までになかった神様とのつながりを持って生きることができていると実感します。

だから神様のことを書きたいのです。牧会の中で教えられる神様のこと、メシアのこと、聖霊のこと、

そしてかかわりを許され一人一人に接してくださる内容を中心に生きていけたらと思います。

家庭連合の時も、今教えていただいている内容があれば違っていたと思います。

サタンとちゃんと戦えたと思います。

これからも神様の私たちにくださる愛を心を文亨進二代王様のみことばから共有できたらと思います。

宜しくお願いいたします。

パートⅡです。

さて続きです。最初の内容を読んでくださってありがとうございます。

前にお話ししたかも知れませんが、私は文亨進二代王様のみ言を語られる内容にとても感動してサンクチュアリ教会にきました。私の心、魂が喜びます。

それでは続きを載せます。

文亨進二代王様のみ言です。

聖書には、からし種ほどのしんこうがあればあなたは山を動かすことができる(マタイ17:20)と書いてあります。この小さな種は神様から来ているのです。そして、この小さな種は宇宙を動かす力があるのです。

私達が信仰をこのように理解すれば、私達は信じることと信仰の違いを知ることができます。

次に、マタイによる福音書8章5節から10節までを見てみましょう。

さて、イエスがカペナウムに帰ってこられた時、ある百卒長がみもとに来て訴えて言った。「主よ、私の僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。」

イエスは彼に、「私が行って治してあげよう。」と言われた。

そこで百卒長は答えて言った、「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただお言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人のものに「行け」と言えば行き、他の者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に、「これをせよ」と言えば、してくれるのです。

イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた。「よく聞きなさい。イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」

この百卒長の信仰を見てください。彼がキリストに出会いに行く時、彼はキリストを信じていたのです。そして彼がキリストに出会った時、このような信仰を示したのです。「ただお言葉をください。そうすれば僕は治ります。」と言ったのです。

このように信仰はキリストとの出会いに直接つながっているのです。それは、キリストかキリストのみことばとの関係が必要なのです。最初にみことばがあったのです。そしてみことばが実体化されたのです。

キリストは生きたみことばです。キリストに出会うか、キリストのみことばに出会わなければ、私達は信仰をもつことができません。それがなければ、何かを信じただけで、固い信仰には到達できません。

私達の生活においても同じことです。

そのために私達は聖霊やお父様との交流の経験を求めているのです。

そして、時が来た時、お父様の恵みによって私達が信じていることが信仰に格上げされるのです。

その信仰に私達が到達した時、私達は山をも動かす力を得るのです。

からし種ほどの信仰を得る為にも、私達はキリストに出会わなければなりません。それは必要なことです。

私達はお祈りする時、「私が神様に出合うことができるようにしてください」とお祈りしてください。

次にマタイによる福音書9章20節から22節を見てみましょう。

するとその時、12年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスの後から衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、治していただけるだろう、と心の中で思っていたからである。

イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」するとこの女は、その時にいやされた。

これは長血をわずらっていた女の話です。

この話をよんで、「そうか、私はそれを信じさえすればよいのか」と思うかもしれません。

しかし、それは違います。

信じることだけでは、いやしは起こらないし、祝福を受けることもできません。

それは重要なことですが、信仰ではありません。

その女性がイエス様に近づいて行くとき、その衣にさわればいやされることを信じていました。しかし、彼女はそれに触らなければなりません。

皆さんは神様に触りたいですか。

私達は神様に触らなければなりません。

触らなければ信仰をもつことはできません。

ただ信じることは、信仰とは大きく違うことです。

ローマ人への手紙9章31節から32節を見てみましょう。

しかし、義の律法を追い求めたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。

どれだけ統一教会の人が、行いによって得られるかのように追い求めているでしょうか。

私の努力によって、

私の信じる心によって、

私は私の信仰基台を作る。

それはすでに信仰を誤解しているのです。

信仰によらないで、私達自身の努力によって義を求めているのです。

ガラテヤ人への手紙3章21節から22節を見てみましょう。

では、律法は神の約束と相入れないものなのか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたであろう。

しかし、約束が、信じる人々にイエスキリストに対する信仰によって与えられる為に、聖書は全ての人を罪の下に閉じ込めたのである。

ここに「キリストに対する信仰によって与えられる」と書かれています。

「私の信仰によって与えられる」とは書いてありません。

イエス様に対する信仰によって与えられるのです。

誰が絶対信仰を持っていますか。

信仰は与えられるのです。。

信じることは一部であり、私の責任ではありますが、それは信仰ではありません。

信仰は信じることが神様から与えられた意識に昇華されたときなされるのです。

それは岩のように固いものです。

皆さん如何でしょうか。この内容が実際の生活に定着していたら、全く違う生活になっていたと思います。

そして最終です。いよいよの魂のことをお話しして下さいます。

私がお母様(韓鶴子)と過ごした時のことを思い出すと、お母様(韓鶴子)に何が起こったのかを知ることができます。

お母様(韓鶴子)が魂の闇夜を経験した時はいつも、何か暗い行動をしていました。

お母様(韓鶴子)には習慣がありました。子供達に「なぜお父様はこうなんでしょうか。」とか、「なぜお父様はこのようなことをされるのでしょうか。」とか言われていました。

このような考えをいつもされ続けていました。

お母様(韓鶴子)はキリストと一緒におられたのですが、

お母様(韓鶴子)の信仰は全て彼女自身から来ていたのです。

お父様と共にいて、多くの恵がお父様を通して来ている事を理解できなかったのです。

それが、自己憐憫に陥り、独善的になりました。

それは「全ては私がやった。私がお父様を作った。私はこんなに苦しんだのに、お父様はそれほどくるしまなかった。私が彼を作った。」と考えるようになられ、

しだいにまわりにいる悪魔達に操られるようになってしまったのです。

全ての人が経験する信仰の闇夜を経験した時

私達は「神様、私は何か間違いをしたのでしょうか。」と問うのではなく、

「神様、今何をされているのですか。」とか、「神様、今私にどのように働かれているのですか。私をどこに導いていらっしゃるのですか。」と問いかけるべきです。

私達は魂の闇夜から抜け出したいのです。

私達が困難なことを経験する時、私達はそこから逃げたいのです。

それには直面したくないのです。

アビラのテレサは、魂の闇夜を経験している時は雑草を抜く時ではないと言いました。

信仰的に困難ことを経験している時は、雑草(不快な人やもの)を抜く時ではないと言うのです。

それは植木屋と共に雑草の中へ行く時だというのです。

なぜなら、神様があなたに試練を与えるには理由があるからです。

多くの場合、神様があなたを目覚めさせる為に、シュミタ(安息年)やスーパーシュミタのように試練をあたえるのです。

私達がそのような闇夜を経験している時、神様に「神様、あなたは私をどこへ導いているんですか。私は雑草を見に行きたいのです。」と問いかけるのです。

私は雑草を見たいのです。植木屋と共に雑草を見せてください。植木屋が雑草をみせてくれるでしょう。

これはあなたにとってとても重要なことです。

逃げることのできない重要なことです。

もしあなたがそれに対処しなければ、

それはあなたを永遠に追い続けるでしょう。

神様は私達に暗い夜を与えるのです。それは昼があって夜があるのと同じことです。

あなたの魂がどこにいても、その時が、あなたが雑草を見るこきです。

多くの人が、キリストとの関係において喜びを追い求めます。

お母様(韓鶴子)の周りに多くの悪魔や天使長達がいるのを私は見ます。

彼らはキリストとの関係ではなく、車や宮殿やマンションやショッピングやレストランなどの利益を求めているのです。

コリント人への第二の手紙12章9節には、

「私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだからキリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

と書いてあります。

私達が魂の闇夜を経験している時、あるいは、信仰的に困難なことを経験している時、その弱さが私達の強さになることがあるのです。

それが神様が私達をより深いところへ導くことができるところです。

神様は神様との新しい依存関係を構築する為に、わざと私達の弱点を示すときがあるのです。

もし私達が魂の闇夜から逃げ出さなければ、私達が死の影の谷をあるこうとも、

そこには悪がありません。

恐れることはありません。

天聖経を読みましょう。

絶対信仰によって、あなたは1つの位置を見つけます。

それは神様が存在する絶対的な位置です。

そこから全ての問題は解決し始めるでしょう。

すごい!としか言えません。

こんな神霊指導うけたことありません。私はこれからですが、生きているときにこの内容をおしえられたことが限りなく感謝です。

さらに続きがあります。文亨進二代王様が語られた、2015年7月26日「魂の成長」をおすすめします。

真の神の日を迎えて今実感すること。

私は今ショックを受けています。そして自分の価値観が大きく変わろうとしています。だから心が重いです。でもその価値観に変わることはいなめずそのようになっていくと思います。

3年前に読んだ文亨進二代王様のみ言、その時は分かりませんでした。あ~、そうなんだ!と新しい知識を教えて頂いたと思っていました。

今回もう一度読みました。今度はものすごい衝撃でした。えっ、じゃあ今まで何をしてきたんだろう!ぐらいの衝撃でした。

それは「信じることと信仰は違う」という内容です。

皆さんは、今さら、と思われるかもしれませんが、私は今回初めて実感したのです。それでこの価値観に変わらざるを得ないところにいます。

長い間、信じること=信仰と思ってきました。私が神様が言われる目標を成就するまで信じ続け成し遂げることが信仰と思ってきました。

私が神様の前に変わらないことが信仰と思ってきました。しかし違ったのです。

3年前に素通りして、知識として理解出来ないままにしていたことを、目前に提示されてしまいました。

それはリマを中心として生活をし始めたからだと思います。リマを中心とする生活を徹底していませんでした。今年の真の神の日を迎えるまでに、リマを中心にする生活に変わりました。そうしたら信じることと信仰とは違うというみ言が気になり、それが理解できて、また信仰を中心とする生活に今変わろうとしています。それで重く、辛いのです。私の堕落性ゆえだと思います。

今まで経験したことのない感覚と世界です。別の世界に来たように思います。この世界は神様に委ねる生活です。しかし無責任にではありません。

私が受けた衝撃の世界です。

2015年7月19日「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」2015年7月22日韓国語説教″奥深い信仰″堕落した″韓鶴子集団″になってしまいました。ブログ真のお父様に帰ろう!『三代王権・こころのサンクチュアリ教会』より。

どのようにしてお母様(韓鶴子)は、魂の闇夜を消化したのでしょうか。信仰者の道や、キリストに向かっていく道には、必ず魂の闇夜があります。それは信仰路程の一部です。いかにそれに対応するかが、あなたがどのような道を行くかを決定するのです。

では、お母様(韓鶴子)はどのようにこの「魂の闇夜」に対応されたのでしょうか。信じることと信仰の違いは何でしょうか。

これは私達の信仰生活にとって、とても深刻な質問です。

ウエブスター辞典に載っている「信仰」という言葉の定義をみてみましょう。

1.誰かか何かの中にある強い確信または信頼

2.神の存在に対する確信、強い宗教的感覚または確信

3.宗教的信念の体系

信仰とは何かを確信することですね。私達は皆何かを確信しようと努力します。

私達が魂の闇夜に直面する時、私達は神様に「私は何を間違ったのでしょうか。何故私は今魂の闇夜を経験しているのでしょうか。」と尋ねます。

私達が信仰上の問題に直面した時、私達の一般的な反応は「神様、私は何を間違ったのでしょうか。」と問いかけることです。

それでは、信じることと信仰の違いは何でしょうか。

カルビンは信仰について次のように述べています。

「信仰は私達に神様が願うことを知らせてくれる。したがって、信仰と神様が願っていることは、聖書の中で直接つながっている。」

信仰は単に確信だけではなくある種の知識でもあります。ただ信じることだけではないのです。

信仰は神様の願いを私達に知らせてくれるものなのです。

信仰を通して私達は神様の願いを理解することができるのです。

それは私達にとって最高の知識です。信仰は神様から受けるもので、私達が生み出すものではありません。このことは私達の心を広げることでしょう。

信仰は神様から受けるものです。それは決して私達が生み出すものではありません。

それはとても興味深いことです。

ここまで読んで私はビックリしたのです。えっ!どゆこと!です。魂の闇夜を通過するということは理解出来ます。お祈りしながら、神様に何故この路程を通過するのですか?とお聞きします。しかし委ねて信じて通過するのだとそして越えるのだと、それが信仰なのだと思ってきました。しかし違うようです。驚きました。

さらに二代王様のみ言が続きます。

ローマ人への手紙12章3節を見てみましょう。

私は、自分に与えられた恵によって、あなた方一人一人に言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰のはかりに従って、つつしみ深く思うべきである。

言い換えれば、神様は私達一人一人に信仰のはかりを与えているということです。これは、私達が普通信仰と考えていることと180度違うかんがえです。

次にエペソ人への手紙2章8節から9節を見てみましょう。

あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方から出たものではなく、神様の賜物である。

これが信仰者が陥りやすい問題です。

私がこれを信じたから、私が祈祷条件をしたから、また私が断食をしたから私の信仰は深まっている。

私達は私達の信仰を生み出していると考える傾向があります。

このことに対する問題点は、自己満足に陥りやすいことです。

信仰は神様からの贈り物なのです。信仰は自分の内部からくるものではなく、外部から来るものなのです。

信仰は神様からの贈り物で、私達に神様の願いを知らせてくれる知識なのです。

信仰という言葉のギリシャ語は「説得すること」と言う意味です。

これは、私達が私達自身を説得するという意味ではなく、神様が私達を説得するということです。それは神様の意思による知識です。

それは大きな滝の下で、私達が信仰の水をつかもうとしているのではなく、落ちてくる信仰の水の中に入っていくようなものです。

そして私達は信仰という神様からの贈り物に感謝するのです。

また、それは誰かがあなたの家のドアをノックするようなものです。

信仰とは神様からの贈り物で、あなたがドアを開けて受けるものです。

これはとても興味深いことですね。

これは、私達が普通考えていた信仰と言う意味から、全く違うものです。私達が、私達は信仰がないと悩むのは、それは、信仰が私たち自身の中からくると思っているからです。

しかし、信仰が神様からの贈り物だということがわかれば、あなたの考え方は完全に変わります。

ここまで読んで今までの自分の信仰生活が変われる予感が来ました。生意気に書いているのは分かっています。しかしブログを書き始めて一番衝撃と驚いたことなので長い文章になりますが載せていきます。

さらに二代王様のみ言です。

チャールズプライスという神学者の信仰と信じることに関するすばらしい文章を紹介したいと思います。

私達は、信仰は神様から与えられた恵みであるにも関するかわらず、私達の心の状態のようにしてしまった。私達は神様が与えてくださった時にだけ信仰を受け取るのである。

あなたは信仰を生み出すことはできない。あなたは約束を信じることはできる。そして同時に、それに適した信仰を持たないこともある。

純粋な聖書的な信仰は、私達の能力によるのではなく、私達の心に与えられた深い神聖な意識によるのである。それは神様だけが与えることのできる信仰で、神様の意思とは矛盾しない。

私達が神様を信じることを信仰と呼ぶのは間違いである。キリストは生きた言葉であり、私達にとって十分なものである。

私達が神様との約束を信じることについて考えて見ましょう。それは私達の祈りなどを通してなされますが、信じることは私達の責任であり、きわめて重要なことです。

しかし、キリストとの個人的な出会いは、彼と彼のみことばとの本当のつながりであり、それは信じることを格上げするのにいつも必ず必要なことです。

信仰はただ信じることではなくて、それは人間の魂の中に与えられる神様からの贈り物なのです。それは深い意識の中にある、神様との約束はなされるという知識なのです。

もしあなたが、キリストとの個人的な出会いが、彼自身か彼のみことばとの間になければ、それは信仰ではありません。それがなければ、あなたは何かをただ信じているだけなのです。この違いわかりますか。

信仰が何であるかを理解することはとても重要なことです。

原理講論の総序にはどのように書いてあるかを見て見ましょう。

今まで神を信じる信徒達が罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うことがなかったからである。

神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄へ引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。

ここにはっきり書かれている通り、神様に対する実感が必要なのです。キリストとの出会いが必要なのです。そうでなければ、あなたはただ信じているだけで、それは信仰ではありません。

二代王様のみ言はここまでです。

途中ですが次回にします。次回はこの後のみ言の続きです。魂の闇をどのようにしたらいいのか、お話ししてくださいます。

私も今実感していて間もないのです。これからです。しかしとても大切なみ言に出会ったと感謝しています。

原理講論の総序の内容も納得しました。このような解釈をしていませんでした。

本当に足りない私ですが、しかし神様が諦めず、ここまで導いて教えて下さったことに感謝です。

この続き次回です。