オクスウ

天国

アベルカインの関係を理解することはとても大切

私が伝道されたのは1973年でした。
路傍伝道です。いきなり「神様を信じますか?」と言われました。
教会に行き霊の親が黒板で原理講義をしてくれました。
霊の親始め教会のひとに世話になりながら、3デイズ、7デイズを出て献身をする話しをされました。
様々なことがあり、世話になりながら、献身しました。
霊の親も同じ教会にいました。
しかし献身してから、霊の親は急に私に冷たくなりました。すれちがっても会釈をする程度でした。ものすごくショックで戸惑いました。
完全に献身生活に放り出されたのです。伝道や経済復帰のなかで、私は優秀な信徒ではありませんでした。
そのたびに、その責任分担のアベルや先輩にめんどうをみてもらいました。祈祷室で聖書を開いてみことばをもらったこともあります。
よくマザーの立場の人がアベルである責任者の人と合わなくて泣いて祈祷していました。アベルカインの戦いでひとつになることが出来ず、
泣きながら一体化するために祈祷したり、条件をたてて真剣に向き合っていました。一体化出来たときは本当に喜んで、そんな姿をずっとみてきました。
アベルカインの関係を単に組織の上司と部下のように考える、目的成就のための関係と、そんなふうに思えない教会の環境でした。みんな一体化のために真剣でした。私も目の前のアベルに対して一体化出来るように真剣に取り組みました。
ある教会長は悩んで自宅に帰った食口を40日間訪問し続け、途中のお店のショーウインドウで笑顔の練習をして訪ねてました。
後からそれを知った食口は教会長の心に本当に感謝して教会に戻ってきました。
さて私の霊の親は教会ではそっけなかったのですが、陰で私のアベルに対して毎日のように私のことを聞いたりお願いをしてくれたりしていました。
後からそれが分かり、びっくりしました。そして感謝でした。足りなかった自分を申しわけなく思いました。
入教してから、霊の親とほとんど話すことも、接することもありませんでしたが、ハガキをよくもらいました。それは献身する前からずっと続いていました。
それから霊の親は人事になり、やがてアメリカへ行きました。霊の親との直接の接触はこの期間だけでした。この後会うことはありませんでした。
しかし、強烈にこの期間に教えられたこと、経験したことが、私の信仰生活に影響しました。
この経験があり、私は食口との関係を家族のように考えることを教えられました。そして私と関わる人たち、特にアベルに対して私がひとつになることが出来るように、
ひとつ、ひとつ、努力してきました。年月が過ぎてもどの環境でもこの考えは変わりません。
私がどうしたらいいのか、神様の願いを尋ねてそのように努力します。アベルカインの一体化の勝利を通して、たくさん神様の成される素晴らしいことに出会いました。
私がこのように考えて信仰生活を送れるのは、最初アベルカインの復帰のルールを教えてもらいたい、その環境でそだったからと思います。
アベルカインの原則を正しく実行するとメシアと神様の導きの世界で本当に守られた信仰生活をおくることが出来ます。
私の経験です。神様と真の御父母様に感謝します。
そして私の知り合いの伝道されていないと分かった婦人にこのサンクチュアリの恩恵を通して今度はしっかりと神様と真の御父母様につながり
希望の復帰の信仰生活を送ることが出来ますようにお祈りします。


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私は伝道されていませんでした。(ある婦人の体験)

ある婦人の話しです。
1986年に友達から伝道されました。
彼女が伝道されたときは
まず霊の親に宝石展に連れて行かれ、品物を購入しました。
次は霊の親から壺展に行くようにと言われ、一人で行き購入しませんでした。
次に霊の親からうながされ(電話で行くようにと言われた)ビデオセンターに行きビデオを見ることになった。
毎回自分でビデオを選んで、見た。一応対応してくれる、世話人のような人はいた。
その人にうながされて、3日修練会、7日修練会に参加したそうです。その間霊の親はいっさいタッチせずです。
その修練会で親しくなった婦人とビデオセンターがなくなって、霊石愛好会に通いさらに親交を深めたそうです。
その毎日の中で(なぜ毎日なのかというとその館に行っても誰も主管する人もなく、その婦人との交流だけたったからです)日曜礼拝にまたは大会に参加したそうです。
そのなかで祝福前の献身者と親しくなり三人で話しあったり、出かけたり(祈祷やお参りなど)したそうです。
そんな中で6500双の祝福があり、天地正教が出来ました。
ここまでずーっと横のつながり、修練会で親しくなった婦人とそして出かけた先にいた献身者の女性とのつながりで彼女はここに留まっていました。
霊の親はタッチせずです。
この後彼女は公務につき、初めてアベルという存在と出会います。
しかし親しくしていた女性との関係や、献身者の女性との関係が切れず、当然トラブルの連続で、どう切り抜けていいか誰も分からず、
アベルも批判だけで彼女たちを主管出来ず、誰も陰で自分中心の思いを言い合うだけで、恨みが渦巻く環境になりました。
表面はどんどん摂理が進んで行くという状態でした。もちろん献金の摂理です。
彼女たち婦人も献金をうながされてその摂理に加担する毎日になりました。
そんな中でなにを目指したかというと祝福でした。
結論彼女はアベルの言われることをそのまま行う人になりました。じっとがまんして何も言わず黙々と被害者の立場にいました。
善悪の判断もわからず、ただ教会の責任者のいうことを実戦する人になりました。もちろんそこにことがらに対する責任はもちません。
不満でもアベルのいうことだから、とアベルのいうことが正しいと思い行動する人になっていました。
自分を守るすべを身につけて、周りを気にしながら行動する人になっていました。(何故ならアベルという存在に一度も生命の復帰を教えてもらえず、主管されていない)多分組織とアベルの考え方は献金さえすれば救われるという考え方だったからです。実際教会長が「信者は献金してればいい、原理なんか分からない!」と捨てぜりふを言うのを聞いています。彼女は伝道たれていない!と思いました。彼女は神様を知りたかったし、会いたかった、自分の人生も知りたかった、まったくそれに触れて信仰生活を送っていませんでした。伝道されていないと分かったとき、肝心なサタン分別の時いつも失敗して落ち込んできた姿が浮かび、彼女のせいだけではないと思いました。
よく今まで教会を離れずにいたと思いました。とても驚き、ショックで私の胸がえぐられたように、どうしようもない気持ちになりました。本当に驚きでした。
そしてこのつらい気持ちは神様の気持ちだとおもいました。
だからブログに書くことにしました。皆さんにも知ってもらいたい、
神様が真のお父様がどれほどのお気持ちだったでしょうか。
伝道されていない、復帰を教えられていない、私の生命の復帰がとてもいい加減なまま今日まで来てしまった。
だから大切なアベルカインのルールやメシアとの関係、神様に出会うこと、とんでもないのです。
神様は畏れ多く遠い恐い存在なのです。メシアも同じく、アベルの言うことは絶対なのです。
間違った!間違った!考えです。
本当によくサンクチュアリにたどり着いたと思います。
彼女はこれから二代王様のもとでもう一度伝道されます。

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文亨進様インタビュー「アメリカと天一国建設」

康オモニに心から感謝申し上げます。永遠に感謝をお捧げいたします。
大好きな大好きな康オモニなのです。
個人的に康オモニは自分が救われないと不安だった私をもう一度しっかりメシアにつないでくださり、メシアによって私たち全人類は救われると教えてくださったかたなのです。
(文亨進二代王様のインタビューに移ります。
今回で最後ですが私は改めてこれからの進む方向と歩みを教えていただき自覚させてもらいました。
大切な大切な内容とおもいます。)
神様は私たちを韓国や日本ではなくてここに連れてきたのは、アメリカに自由がまだ残っているからだと思います。
例えば私は若いときに銃を所有していました。兄たちがそうだったので゛同調圧力があり
男として受け入れられるためにはそうしなければならないといったようなことがありました。
しかし最終的にやめてしまったのです。
仏教を追い求めるようになり、非暴力主義者になりました。
暴力的な格闘技を捨て、瞑想を学び、菜食主義者になりまったく正反対の道へ行ったのです。
最終的に私は仏教から多くのことを学びましたが、それについてはあまりおおっぴらにしていませんでした。
人の心を理解すること、心理学、といったような点に関して。
しかし仏教を離れるきっかけになった一つは、世捨て人のような、社会から隔絶した存在になってしまうことでした。
それで仏教国や非暴力主義者を見てみると、ほとんどが共産主義なのです。
ダライ・ラマは勇敢な人ですが、チベットの歴史でさえ、特権階級のエリート僧侶、聖職者による完全な中央集権なのです。
またチベットの歴史には僧侶階級の性的スキャンダルもあります。カトリックも小児性愛の不品行がありますが、チベット仏教の歴史にもあります。
仏教の作りあげた社会の基本をみたときに……
なぜなら、私は個人的にも修行して、自分の人生の目的全体を仏教に注ぎ込んでいましたので
それで自分の心の中を理解することができるようになるのですが、あくまでも個人としてです。
しかしそれが社会のレベルに拡大されていくと、何が起こるでしょうか?
それはあなたのための社会を作りません。人々のためではないのです。
仏教が追求するのは解放だというのに、ヒンズー教も、ヨガもそうです。
しかし彼らが作った社会はどうでしょうか?自由ではないのです。
全体主義になりました。また、君主主義になりました。自由を土台としたものではなく、中央集権化した君主主義です。
世界の実際の歴史を見ると、実際に立憲君主制や立憲民主主義は自由を産み出す母体となっています。
カトリックはファシズムを直接サポートし、ドイツではナチをサポートしました。
時の独裁者をサポートしてきました。なぜなら彼ら自身が階級組織だからです。
それで分権化した立場から超越して、私たちがつながることができる分権化した地方の政府の出現が見られたのは、プロテスタントのキリスト教だけでした。
なぜならそれがプロテスタントの本質だからです。
それは分権化し、地方化した宗教なのです。階級組織がないのです。信仰も分権化しています。神に対する自分の信仰が問題です。
メソジストだとか、バプテストだとか何か一つに縛られず、みんな信仰で繋がっている。組織によってではありません。
それで分権化した立場から超越して、私たちがつながることができる、こういった分権化した宗教、分権化した信念が
アメリカの憲法を作ったものたったのです。
自由は神様から直接来るので、自由を得るために一つ政府を成し遂げる必要はない、という考えなのです。
そしてそれが現代の世界での自由の本当の始まりだったのです。
アメリカで始まり、皮肉にもヨーロッパへと逆に伝わり、そしてオーストラリアなど世界に広がっていきました。
ではどんな神学的、宗教が始めたかというと、イスラム教、仏教、カトリックは自由を作ることができなかったのでダメでしたが
プロテスタントのキリスト教からスタートしたというのです。
私はプロテスタントが嫌いでした。なぜなら反プロテスタントのリベラルな文化で育ったからです。
今はもうわかっています。
リベラルな文化というのは共産主義の文化です。
中央集権の権力を信じ、中央集権の政府を信じ、中央集権の教育、中央集権の財政、中央集権の銀行、すべて中央集権です。
西洋で拡大しているリベラルな文化というのは単に共産主義の文化なのです。
それらはマルクスの計画と一致しています。マルクス主義者、社会主義者、フェミニスト、どんな名前をつけてもやはり社会主義者なのです。
私は今になって、なぜ彼らがプロテスタントを、カトリックよりも、イスラム教よりも、仏教よりも嫌うのか分かりました。
なぜならプロテスタントは本質的な中央集権の権力に対して抵抗してきたからです。
彼らを抑えるのが難しいのです。
本質的に中央集権に抵抗しているのです。
こういうわけでリベラルな文化がプロテスタントを嫌い、悪者扱いすることになるのです。
プロテスタントが自由の、分権化した自由の基礎であったというのです。
それでお父様が私たちをここに帰らせた理由というのは、
ここでもう一度根を見つけることができるからだと思います。
最初、私は奮起させられたのです。
それは男として自己防衛ができ、銃を持つことができ、そういうタイプの格闘技を学べる自由があるのです。
伝統的な格闘技や素手の戦いではなく、最も危険なタイプの格闘技を、男として学べる自由があるのです。
お父様が平和警察、平和市民軍と呼ばれたものの、力を持つことができる自由。
天一国主人である自由な男性と女性は、万物を主管するために、
捕食者、野生動物、荒野を恐れないようにするために、力と権利を持ちます。
その力を与えるのは自己防衛を学ぶことなのです。
ここを出るとセキュリティチームはいませんので、自分の家も守らなければなりません。生まれて初めてのことですが、しなければならないのです。
私がセキュリティであり、警察……というよりも、この場所の保護者なのです。
誰かが家を襲ってきたら、私が戦います。
女性はこういうことは対処できないと、誰かに言われて決めつけられた不安を克服するために
私は妻に力を与え、娘に力を与え、家にいる女性に力を与えることができます。
それを克服するために、銃を学び、カリ・エクスリマや棒やナイフを使った戦い方を学び、柔術を学ぶのです。
こういったことは危険なことですが、そういった技術を学んで理解するのです。
それが力を与えます。
そして、今の世界でそういったことが本当にできるのはアメリカだけです。他の国は非常に中央集権化されてしまいました。
だから全体主義者たちは、アメリカに集中して、その残ったものを、壊そうとしているのです。
ですから、それが天一国でとても重要なです。
天一国において自己防衛の権利は、神様が与えた基本的な権利なのです。
ハンティングに限らず、政府が非常に腐敗して、悪くなり、天一国の原理から大きくそれて、とても離れてしまう場合にも、
人々が、政府と独裁的な武力に対して、反乱を起こすことのできる力と手段、そして火力を持つのです。
人々は暴力を使ってでも取り戻す力も持つのです。
神様が権利を与えます。
ですから神の国、天一国ではそれが欠かせないものなのです。
そういうわけで、お父様は自由な人間となる姿を受け入れてくださるために、私たちをアメリカに戻したのです。
王国において、平和警察、平和市民軍の人間になるという責任、兄弟を守り、隣人を守り、共同体を守るために、
すべての市民が、その権利と義務を持ちます。自由に対する力を子どもたちに与えるために。
私は長い間、非暴力主義者だったので、憲法修正第2条(人民の武装権)の価値が分かりませんでした。
自由の力関係を、自由の社会学を、そして自由の政治体制を共産主義と比較して理解するまで分からなかったのです。
をれには深い理解と教育が必要でした。
今はもう十分に教育を受けましたのでそれらの違いが分かります。
私がここにいることは、天から与えられたものだと思います。
おそらくアメリカだからできるのです。真の自由という観点では世界中のどこよりも高いのです。その観点では。
(文亨進様インタビューはこれで終わりです。みなさん読んでくださってありがとうございます。
私も今回載せることで改めて拝見しました。神様と真の御父母様に感謝しました。今サンクチュアリにいることがどんなに感謝かと思いました。
新しく出発しなさいと言われたように思いました。)

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