オクスウ

天国

真の神の日を迎えて今実感すること。

私は今ショックを受けています。そして自分の価値観が大きく変わろうとしています。だから心が重いです。でもその価値観に変わることはいなめずそのようになっていくと思います。

3年前に読んだ文亨進二代王様のみ言、その時は分かりませんでした。あ~、そうなんだ!と新しい知識を教えて頂いたと思っていました。

今回もう一度読みました。今度はものすごい衝撃でした。えっ、じゃあ今まで何をしてきたんだろう!ぐらいの衝撃でした。

それは「信じることと信仰は違う」という内容です。

皆さんは、今さら、と思われるかもしれませんが、私は今回初めて実感したのです。それでこの価値観に変わらざるを得ないところにいます。

長い間、信じること=信仰と思ってきました。私が神様が言われる目標を成就するまで信じ続け成し遂げることが信仰と思ってきました。

私が神様の前に変わらないことが信仰と思ってきました。しかし違ったのです。

3年前に素通りして、知識として理解出来ないままにしていたことを、目前に提示されてしまいました。

それはリマを中心として生活をし始めたからだと思います。リマを中心とする生活を徹底していませんでした。今年の真の神の日を迎えるまでに、リマを中心にする生活に変わりました。そうしたら信じることと信仰とは違うというみ言が気になり、それが理解できて、また信仰を中心とする生活に今変わろうとしています。それで重く、辛いのです。私の堕落性ゆえだと思います。

今まで経験したことのない感覚と世界です。別の世界に来たように思います。この世界は神様に委ねる生活です。しかし無責任にではありません。

私が受けた衝撃の世界です。

2015年7月19日「神様と共に深い信仰の世界へ行きましょう」2015年7月22日韓国語説教″奥深い信仰″堕落した″韓鶴子集団″になってしまいました。ブログ真のお父様に帰ろう!『三代王権・こころのサンクチュアリ教会』より。

どのようにしてお母様(韓鶴子)は、魂の闇夜を消化したのでしょうか。信仰者の道や、キリストに向かっていく道には、必ず魂の闇夜があります。それは信仰路程の一部です。いかにそれに対応するかが、あなたがどのような道を行くかを決定するのです。

では、お母様(韓鶴子)はどのようにこの「魂の闇夜」に対応されたのでしょうか。信じることと信仰の違いは何でしょうか。

これは私達の信仰生活にとって、とても深刻な質問です。

ウエブスター辞典に載っている「信仰」という言葉の定義をみてみましょう。

1.誰かか何かの中にある強い確信または信頼

2.神の存在に対する確信、強い宗教的感覚または確信

3.宗教的信念の体系

信仰とは何かを確信することですね。私達は皆何かを確信しようと努力します。

私達が魂の闇夜に直面する時、私達は神様に「私は何を間違ったのでしょうか。何故私は今魂の闇夜を経験しているのでしょうか。」と尋ねます。

私達が信仰上の問題に直面した時、私達の一般的な反応は「神様、私は何を間違ったのでしょうか。」と問いかけることです。

それでは、信じることと信仰の違いは何でしょうか。

カルビンは信仰について次のように述べています。

「信仰は私達に神様が願うことを知らせてくれる。したがって、信仰と神様が願っていることは、聖書の中で直接つながっている。」

信仰は単に確信だけではなくある種の知識でもあります。ただ信じることだけではないのです。

信仰は神様の願いを私達に知らせてくれるものなのです。

信仰を通して私達は神様の願いを理解することができるのです。

それは私達にとって最高の知識です。信仰は神様から受けるもので、私達が生み出すものではありません。このことは私達の心を広げることでしょう。

信仰は神様から受けるものです。それは決して私達が生み出すものではありません。

それはとても興味深いことです。

ここまで読んで私はビックリしたのです。えっ!どゆこと!です。魂の闇夜を通過するということは理解出来ます。お祈りしながら、神様に何故この路程を通過するのですか?とお聞きします。しかし委ねて信じて通過するのだとそして越えるのだと、それが信仰なのだと思ってきました。しかし違うようです。驚きました。

さらに二代王様のみ言が続きます。

ローマ人への手紙12章3節を見てみましょう。

私は、自分に与えられた恵によって、あなた方一人一人に言う。思うべき限度を超えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰のはかりに従って、つつしみ深く思うべきである。

言い換えれば、神様は私達一人一人に信仰のはかりを与えているということです。これは、私達が普通信仰と考えていることと180度違うかんがえです。

次にエペソ人への手紙2章8節から9節を見てみましょう。

あなた方の救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなた方から出たものではなく、神様の賜物である。

これが信仰者が陥りやすい問題です。

私がこれを信じたから、私が祈祷条件をしたから、また私が断食をしたから私の信仰は深まっている。

私達は私達の信仰を生み出していると考える傾向があります。

このことに対する問題点は、自己満足に陥りやすいことです。

信仰は神様からの贈り物なのです。信仰は自分の内部からくるものではなく、外部から来るものなのです。

信仰は神様からの贈り物で、私達に神様の願いを知らせてくれる知識なのです。

信仰という言葉のギリシャ語は「説得すること」と言う意味です。

これは、私達が私達自身を説得するという意味ではなく、神様が私達を説得するということです。それは神様の意思による知識です。

それは大きな滝の下で、私達が信仰の水をつかもうとしているのではなく、落ちてくる信仰の水の中に入っていくようなものです。

そして私達は信仰という神様からの贈り物に感謝するのです。

また、それは誰かがあなたの家のドアをノックするようなものです。

信仰とは神様からの贈り物で、あなたがドアを開けて受けるものです。

これはとても興味深いことですね。

これは、私達が普通考えていた信仰と言う意味から、全く違うものです。私達が、私達は信仰がないと悩むのは、それは、信仰が私たち自身の中からくると思っているからです。

しかし、信仰が神様からの贈り物だということがわかれば、あなたの考え方は完全に変わります。

ここまで読んで今までの自分の信仰生活が変われる予感が来ました。生意気に書いているのは分かっています。しかしブログを書き始めて一番衝撃と驚いたことなので長い文章になりますが載せていきます。

さらに二代王様のみ言です。

チャールズプライスという神学者の信仰と信じることに関するすばらしい文章を紹介したいと思います。

私達は、信仰は神様から与えられた恵みであるにも関するかわらず、私達の心の状態のようにしてしまった。私達は神様が与えてくださった時にだけ信仰を受け取るのである。

あなたは信仰を生み出すことはできない。あなたは約束を信じることはできる。そして同時に、それに適した信仰を持たないこともある。

純粋な聖書的な信仰は、私達の能力によるのではなく、私達の心に与えられた深い神聖な意識によるのである。それは神様だけが与えることのできる信仰で、神様の意思とは矛盾しない。

私達が神様を信じることを信仰と呼ぶのは間違いである。キリストは生きた言葉であり、私達にとって十分なものである。

私達が神様との約束を信じることについて考えて見ましょう。それは私達の祈りなどを通してなされますが、信じることは私達の責任であり、きわめて重要なことです。

しかし、キリストとの個人的な出会いは、彼と彼のみことばとの本当のつながりであり、それは信じることを格上げするのにいつも必ず必要なことです。

信仰はただ信じることではなくて、それは人間の魂の中に与えられる神様からの贈り物なのです。それは深い意識の中にある、神様との約束はなされるという知識なのです。

もしあなたが、キリストとの個人的な出会いが、彼自身か彼のみことばとの間になければ、それは信仰ではありません。それがなければ、あなたは何かをただ信じているだけなのです。この違いわかりますか。

信仰が何であるかを理解することはとても重要なことです。

原理講論の総序にはどのように書いてあるかを見て見ましょう。

今まで神を信じる信徒達が罪を犯すことがあったのは、実は、神に対する彼らの信仰が極めて観念的であり、実感を伴うことがなかったからである。

神が存在するということを実感でとらえ、罪を犯せば人間は否応なしに地獄へ引かれていかなければならないという天法を十分に知るなら、そういうところで、誰があえて罪を犯すことができようか。

ここにはっきり書かれている通り、神様に対する実感が必要なのです。キリストとの出会いが必要なのです。そうでなければ、あなたはただ信じているだけで、それは信仰ではありません。

二代王様のみ言はここまでです。

途中ですが次回にします。次回はこの後のみ言の続きです。魂の闇をどのようにしたらいいのか、お話ししてくださいます。

私も今実感していて間もないのです。これからです。しかしとても大切なみ言に出会ったと感謝しています。

原理講論の総序の内容も納得しました。このような解釈をしていませんでした。

本当に足りない私ですが、しかし神様が諦めず、ここまで導いて教えて下さったことに感謝です。

この続き次回です。

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