さて続きです。最初の内容を読んでくださってありがとうございます。
前にお話ししたかも知れませんが、私は文亨進二代王様のみ言を語られる内容にとても感動してサンクチュアリ教会にきました。私の心、魂が喜びます。
それでは続きを載せます。
文亨進二代王様のみ言です。
聖書には、からし種ほどのしんこうがあればあなたは山を動かすことができる(マタイ17:20)と書いてあります。この小さな種は神様から来ているのです。そして、この小さな種は宇宙を動かす力があるのです。
私達が信仰をこのように理解すれば、私達は信じることと信仰の違いを知ることができます。
次に、マタイによる福音書8章5節から10節までを見てみましょう。
さて、イエスがカペナウムに帰ってこられた時、ある百卒長がみもとに来て訴えて言った。「主よ、私の僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています。」
イエスは彼に、「私が行って治してあげよう。」と言われた。
そこで百卒長は答えて言った、「主よ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格は、私にはございません。ただお言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人のものに「行け」と言えば行き、他の者に「来い」と言えば来ますし、また、僕に、「これをせよ」と言えば、してくれるのです。
イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた。「よく聞きなさい。イスラエルの人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」
この百卒長の信仰を見てください。彼がキリストに出会いに行く時、彼はキリストを信じていたのです。そして彼がキリストに出会った時、このような信仰を示したのです。「ただお言葉をください。そうすれば僕は治ります。」と言ったのです。
このように信仰はキリストとの出会いに直接つながっているのです。それは、キリストかキリストのみことばとの関係が必要なのです。最初にみことばがあったのです。そしてみことばが実体化されたのです。
キリストは生きたみことばです。キリストに出会うか、キリストのみことばに出会わなければ、私達は信仰をもつことができません。それがなければ、何かを信じただけで、固い信仰には到達できません。
私達の生活においても同じことです。
そのために私達は聖霊やお父様との交流の経験を求めているのです。
そして、時が来た時、お父様の恵みによって私達が信じていることが信仰に格上げされるのです。
その信仰に私達が到達した時、私達は山をも動かす力を得るのです。
からし種ほどの信仰を得る為にも、私達はキリストに出会わなければなりません。それは必要なことです。
私達はお祈りする時、「私が神様に出合うことができるようにしてください」とお祈りしてください。
次にマタイによる福音書9章20節から22節を見てみましょう。
するとその時、12年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスの後から衣のふさにさわった。み衣にさわりさえすれば、治していただけるだろう、と心の中で思っていたからである。
イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」するとこの女は、その時にいやされた。
これは長血をわずらっていた女の話です。
この話をよんで、「そうか、私はそれを信じさえすればよいのか」と思うかもしれません。
しかし、それは違います。
信じることだけでは、いやしは起こらないし、祝福を受けることもできません。
それは重要なことですが、信仰ではありません。
その女性がイエス様に近づいて行くとき、その衣にさわればいやされることを信じていました。しかし、彼女はそれに触らなければなりません。
皆さんは神様に触りたいですか。
私達は神様に触らなければなりません。
触らなければ信仰をもつことはできません。
ただ信じることは、信仰とは大きく違うことです。
ローマ人への手紙9章31節から32節を見てみましょう。
しかし、義の律法を追い求めたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。
どれだけ統一教会の人が、行いによって得られるかのように追い求めているでしょうか。
私の努力によって、
私の信じる心によって、
私は私の信仰基台を作る。
それはすでに信仰を誤解しているのです。
信仰によらないで、私達自身の努力によって義を求めているのです。
ガラテヤ人への手紙3章21節から22節を見てみましょう。
では、律法は神の約束と相入れないものなのか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義は確かに律法によって実現されたであろう。
しかし、約束が、信じる人々にイエスキリストに対する信仰によって与えられる為に、聖書は全ての人を罪の下に閉じ込めたのである。
ここに「キリストに対する信仰によって与えられる」と書かれています。
「私の信仰によって与えられる」とは書いてありません。
イエス様に対する信仰によって与えられるのです。
誰が絶対信仰を持っていますか。
信仰は与えられるのです。。
信じることは一部であり、私の責任ではありますが、それは信仰ではありません。
信仰は信じることが神様から与えられた意識に昇華されたときなされるのです。
それは岩のように固いものです。
皆さん如何でしょうか。この内容が実際の生活に定着していたら、全く違う生活になっていたと思います。
そして最終です。いよいよの魂のことをお話しして下さいます。
私がお母様(韓鶴子)と過ごした時のことを思い出すと、お母様(韓鶴子)に何が起こったのかを知ることができます。
お母様(韓鶴子)が魂の闇夜を経験した時はいつも、何か暗い行動をしていました。
お母様(韓鶴子)には習慣がありました。子供達に「なぜお父様はこうなんでしょうか。」とか、「なぜお父様はこのようなことをされるのでしょうか。」とか言われていました。
このような考えをいつもされ続けていました。
お母様(韓鶴子)はキリストと一緒におられたのですが、
お母様(韓鶴子)の信仰は全て彼女自身から来ていたのです。
お父様と共にいて、多くの恵がお父様を通して来ている事を理解できなかったのです。
それが、自己憐憫に陥り、独善的になりました。
それは「全ては私がやった。私がお父様を作った。私はこんなに苦しんだのに、お父様はそれほどくるしまなかった。私が彼を作った。」と考えるようになられ、
しだいにまわりにいる悪魔達に操られるようになってしまったのです。
全ての人が経験する信仰の闇夜を経験した時
私達は「神様、私は何か間違いをしたのでしょうか。」と問うのではなく、
「神様、今何をされているのですか。」とか、「神様、今私にどのように働かれているのですか。私をどこに導いていらっしゃるのですか。」と問いかけるべきです。
私達は魂の闇夜から抜け出したいのです。
私達が困難なことを経験する時、私達はそこから逃げたいのです。
それには直面したくないのです。
アビラのテレサは、魂の闇夜を経験している時は雑草を抜く時ではないと言いました。
信仰的に困難ことを経験している時は、雑草(不快な人やもの)を抜く時ではないと言うのです。
それは植木屋と共に雑草の中へ行く時だというのです。
なぜなら、神様があなたに試練を与えるには理由があるからです。
多くの場合、神様があなたを目覚めさせる為に、シュミタ(安息年)やスーパーシュミタのように試練をあたえるのです。
私達がそのような闇夜を経験している時、神様に「神様、あなたは私をどこへ導いているんですか。私は雑草を見に行きたいのです。」と問いかけるのです。
私は雑草を見たいのです。植木屋と共に雑草を見せてください。植木屋が雑草をみせてくれるでしょう。
これはあなたにとってとても重要なことです。
逃げることのできない重要なことです。
もしあなたがそれに対処しなければ、
それはあなたを永遠に追い続けるでしょう。
神様は私達に暗い夜を与えるのです。それは昼があって夜があるのと同じことです。
あなたの魂がどこにいても、その時が、あなたが雑草を見るこきです。
多くの人が、キリストとの関係において喜びを追い求めます。
お母様(韓鶴子)の周りに多くの悪魔や天使長達がいるのを私は見ます。
彼らはキリストとの関係ではなく、車や宮殿やマンションやショッピングやレストランなどの利益を求めているのです。
コリント人への第二の手紙12章9節には、
「私の力は弱いところに完全にあらわれる。」それだからキリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
と書いてあります。
私達が魂の闇夜を経験している時、あるいは、信仰的に困難なことを経験している時、その弱さが私達の強さになることがあるのです。
それが神様が私達をより深いところへ導くことができるところです。
神様は神様との新しい依存関係を構築する為に、わざと私達の弱点を示すときがあるのです。
もし私達が魂の闇夜から逃げ出さなければ、私達が死の影の谷をあるこうとも、
そこには悪がありません。
恐れることはありません。
天聖経を読みましょう。
絶対信仰によって、あなたは1つの位置を見つけます。
それは神様が存在する絶対的な位置です。
そこから全ての問題は解決し始めるでしょう。
すごい!としか言えません。
こんな神霊指導うけたことありません。私はこれからですが、生きているときにこの内容をおしえられたことが限りなく感謝です。
さらに続きがあります。文亨進二代王様が語られた、2015年7月26日「魂の成長」をおすすめします。